【小山評定の群像(33)】那須資景 名家存続決めた「与一」の名
豊臣秀吉が1591(天正19年)年、那須資景に「5千石の所領を与える」とした書状は「与一郎とのへ」と宛てられた。前年の書状の宛名は幼名「藤王丸」。江戸時代、那須家当主は通称を「与一」と名乗るが、これは資景からだ。源平合戦で扇の的を射落とした那須与一の活躍から400年。突然、「与一」の名乗りが復活した。
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